こんにちは!レキショックです!
今回は、鎌倉時代を代表する有力者たちに嫁いだ北条時政の娘たちについて紹介します。
源頼朝に嫁いだ北条政子をはじめ、北条時政の娘は源氏一族や鎌倉幕府の御家人、京都の貴族まで、計11人の女子が他家に嫁いでいます。
その中でも、北条政子と源頼朝の縁は格別で、源氏の棟梁と結びついた北条氏は、伊豆の一介の武士から鎌倉幕府を代表する御家人へと成長することになりました。
北条氏が鎌倉幕府でのし上がっていくに従い、彼女たちの縁によって北条氏と結びついた北条の婿たちは、北条氏をめぐる時代の波に飲み込まれていくこととなります。
今回は、北条氏の婿たちの中から、畠山重忠、稲毛重成の2人、そして他の北条氏の姫たちの嫁いだ先について紹介します。
義理の父に滅ぼされる 畠山重忠のその後
畠山重忠は、北条義時の異母妹を妻に迎えています。
大河ドラマでは、ちえと名付けられており、のちに畠山重忠の嫡男、畠山重保を産むことになります。
畠山重忠は北条時政の娘を妻に迎える前に、13人の合議制のメンバーの1人である足立遠元の娘を妻に迎えており、畠山重秀をもうけています。
足立遠元は現在の東京都足立区のあたりを本拠地としていた武士で、同じ武蔵国の南北を代表する勢力として結びつきを深めるための婚姻だったといわれています。
畠山重忠が足立遠元の娘と結婚し、子供をもうけたのは源平合戦が始まる前後のことで、この頃には頼朝の勢力が確立しつつあったものの、まだ平家も健在で、近隣の豪族同士の結びつきが重要視されていたのでしょう。
しかし、この後重忠は北条時政の娘を妻に迎えることとなります。
これは、頼朝政権が確立したことで、頼朝に従う坂東の武士同士が広範囲にわたって縁戚関係を持つようになったことを意味し、武蔵国北部の畠山氏とは地理的に離れた伊豆国の北条氏が縁戚関係となるという、一昔前ならあまりなかった婚姻が多数行われるようになりました。
この頃の北条氏は、北条政子を通じて頼朝と縁戚関係にはあったものの、まだ幕府の実権を握るまでの勢力は保持しておらず、むしろ2代将軍となる源頼家の外戚として幕府に入り込む比企能員の勢力に将軍家の縁戚という特権的な立場を奪われそうになっていました。
北条時政と比企能員が表立って対立するのはまだ先ですが、畠山重忠との婚姻は北条時政の味方集めといった側面もあったでしょう。
事実、時政は畠山重忠と同じ秩父氏の一族である稲毛重成にも娘を嫁がせており、比企能員の武蔵国における対抗勢力になりうる秩父氏一派を味方に引き入れることとなりました。
重忠は源平合戦ののち、源義経が追われる身となると、それに連座した河越重頼に代わって、武蔵留守所惣検校職の地位を継ぎ、秩父氏の惣領の立場となるなど、着実に力をつけていました。
畠山重忠としても、幕府内で一定の権力を握る北条氏との関係強化は望むべきところで、足立遠元との間に生まれた畠山重秀は庶子扱いとし、時政の娘との間に生まれた畠山重保を嫡男としています。
こうして北条時政の与党となった重忠は、頼朝の死後に表面化した北条時政と比企能員の争いにおいても北条氏に味方し、比企能員を滅ぼすのに一役買っています。
比企能員の滅亡により後ろ盾を失った2代将軍源頼家は幽閉され、3代将軍に源実朝がつき、これ以降幕府の実権は北条氏が握ることとなります。
しかし、共通の敵であった比企能員が滅亡したことで、比企氏の跡に入り込もうとする北条氏と畠山重忠は対立関係となってしまいます。
北条時政は、同じ娘婿で源氏の血をひく平賀朝雅を支援しており、武蔵国司であった朝雅を背景に、北条時政は重忠の権益を犯そうとしており、両者の対立は京都にまで伝わるなど周知の事実となっていました。
そして時政は謀略をもって畠山重忠を討伐することを決断します。
時政にとっては、畠山重忠は娘婿ではありましたが、重忠の妻は自身の先妻との娘であり、一方、平賀朝雅の妻は牧の方との娘であったことから、牧の方の力もあり、時政は娘婿の排斥に乗り出します。
時政は自身の孫にあたる重忠の嫡男、畠山重保を殺害し、重忠も討伐軍と戦いますが、多勢に無勢で敗れ、命を落としてしまいました。
こうして畠山氏は北条氏の策謀の前に滅亡してしまいますが、重忠の妻であった時政の娘は、重忠の死後、足利義純に嫁ぎます。
一説には、重忠の娘が嫁いだともされていますが、この婚姻により、足利氏一族であった足利義純が畠山氏の所領を継承し、以降畠山氏は、足利一族として室町時代には管領などを務め、応仁の乱の原因にもなるなど、歴史の表舞台で活躍を続けることとなります。
足利義純の父の足利義兼は、同じく北条時政の娘を妻としており、源氏の名門足利氏は、鎌倉時代を通じて北条氏と婚姻関係を結んでいたことから、畠山氏は完全に北条氏に飲み込まれることとなってしまったのです。
畠山重忠の乱に巻き込まれ命を落とす 稲毛重成の生涯
畠山重忠と同じく北条時政の娘を妻に迎えた武士に、稲毛重成がいます。
大河ドラマではあきと呼ばれている時政の娘は、歴史的には稲毛女房として名が残っており、稲毛重成との間に1男1女をもうけました。
稲毛重成はもとは小山田重成と名乗っており、重成の父の小山田有重は畠山重忠の父、畠山重能の弟にあたり、畠山重忠と稲毛重成はいとこ同士の関係にありました。
重成は源平合戦を通じて畠山重忠と行動をともにし、重成は現在の東京都西部のあたりを本拠地に御家人として活躍しました。
この間に、北条氏と婚姻関係となり、稲毛女房を妻に迎えています。
稲毛女房は身体の弱かった人物と伝わっており、重成が源頼朝に従って上洛している最中の1195年に、ついに病が重くなり危ない状態となります。
この知らせは美濃国にいた夫の重成のもとにもたらされ、源頼朝は重成に対し駿馬を与え、重成は急ぎ東国へ戻り、妻の元へ向かったという話が残っています。
しかし稲毛女房は亡くなってしまい、重成は悲しみのあまり出家したといいます。
北条家の面々も稲毛女房の死をいたく悲しんだと伝わり、北条時政、義時親子は喪に服するために一ヶ月にわたり伊豆国に帰りました。
一方、夫の重成は相模川の近くに寺を建て、念仏を唱える毎日を送っていました。
そんな中、相模川を渡る際に多くの事故が起きている状況を悲しみ、頼朝の許可を得て相模川に橋をかけたと伝わっています。
この橋の完成の供養に重成は頼朝を招き、頼朝はこの落成供養の帰りに落馬し、のちに亡くなったと伝わっており、重成が関与したわけではないにしろ、歴史に名を残すこととなってしまいました。
その後、比企能員の変を経て、いとこの畠山重忠と義理の父の北条時政が対立関係に入りますが、重成は積極的に重忠に加勢することはなく、重忠は北条氏によって滅ぼされてしまいます。
しかし、重忠の敗死後、重成は時政の意を受けて無実の重忠を讒言し陥れたとして、三浦義村が率いる軍によって突如として討伐されてしまいました。
三浦義村はまず重成の弟の榛谷重朝を討ち、重成、そして子の小沢重政も討たれてしまいました。
これは、御家人の人望が厚かった畠山重忠を討ったことによる御家人の反発が強かったことを意味しており、重成は時政側として積極的に活動していたかは不明にしろ、その首謀者の1人として討たれることとなってしまいました。
北条時政も無実の重忠を討ったことにより御家人たちの非難の的となり、のちに北条義時らによって鎌倉を追い出され、不遇の晩年を送ることになります。
こうして、北条時政と畠山重忠の義理の親子間の戦いは、北条一族、娘の嫁ぎ先も巻き込んだ大騒動となり、悲劇の結末を迎えることとなってしまったのです。
源氏一族、御家人、京都の貴族に嫁いだ 北条の姫たちのその後
北条時政には、畠山重忠、稲毛重成に嫁いだ2人の娘以外にも、9人の娘がいました。
源頼朝に嫁いだ北条政子をはじめ、頼朝の弟、阿野全成には阿波局が嫁いでおり、それぞれ源氏の子をもうけています。
また、北条政子と同じ母を持つ妹に北条時子がおり、時子も源氏の血をひく御家人である足利義兼に嫁いでいます。
時子は足利義兼との間に嫡男の足利義氏をもうけ、その子孫はやがて室町幕府を開く足利尊氏へとつながっていきます。
時政の娘は、武田氏などと同じ源義光の血を引く平賀朝雅にも嫁いでいます。
平賀朝雅は、比企尼の三女の子として生まれ、源頼朝の猶子にもなるなど、源氏将軍家、比企一族ともつながりの深い人物でした。
しかし、母が亡くなっていたこともあり、比企能員の変では妻の縁から北条時政に味方し、以降は時政に擁立されて将軍になろうとした牧氏事件を起こすなど、時政と深いつながりを持つことになります。
時政の娘は正妻の牧の方の兄弟と伝わる大岡時親にも嫁いでいます。
大岡時親は、畠山重忠の乱において北条義時を重忠討伐へ引きずり込む役割を果たし、乱後は北条時政の失脚に連座して出家し、歴史の表舞台から姿を消しています。
のちに戦国大名として続くことになる下野国の宇都宮頼綱、伊予国の河野通信も北条時政の娘を妻に迎えています。
宇都宮頼綱は時政の娘との間に嫡男の宇都宮泰綱をもうけ、泰綱も北条氏から妻を迎えるなど代々北条氏とのつながりを深め、子孫は豊臣秀吉によって改易されるまで500年近くにわたって下野国の大名として続くことになりました。
河野通信は、時政の娘との間に嫡男の河野通久をもうけます。
河野氏は承久の乱で通信をはじめほとんどが朝廷側につき没落しましたが、河野通久のみは北条氏との縁から幕府側につき、河野氏を存続させ、子孫は元寇で活躍し、水軍を率いて戦国時代まで伊予国の領主として続いています。
時政の娘は京都の貴族にも嫁いでいます。
時政の娘は、滋野井実宣、坊門忠清という2人の公家にそれぞれ嫁ぎました。
滋野井実宣はもとは公家の娘、そして平清盛の嫡孫の平維盛の娘を妻としていましたが、その妻とも別れ、時政の娘を新たに妻に迎えています。
しかし滋野井家は先妻との子が継いだため、滋野井家に時政の血が残ることはありませんでした。
一方、坊門忠清は時政の娘を妻に迎え北条氏とのつながりを持ったものの、承久の乱では忠清の兄の坊門忠信が朝廷側の有力者であったことから積極的に幕府軍と戦い、戦後に処罰されてしまい、忠清も兄に連座し、以降の消息は不明となってしまいました。
このように、北条時政の計11人の娘たちは、嫁ぎ先と実家の北条家の関係に振り回され、様々な道をたどることとなったのです。