こんにちは!レキショックです!
今回は、北陸を中心に勢力を誇った木曽義仲について紹介します。
源頼朝のいとこであり、長年の因縁はあったものの、自身も本拠地であった信濃国から北陸を通って京都を目指した木曽義仲。
平家に大勝利し、京都へ一番乗りするも、やがて後白河法皇、源頼朝と対立し、悲劇の最期を迎えることとなります。
子孫は木曽の地で命脈を保ち、戦国時代に入ると、武田信玄、織田信長ら大勢力の間で存在感を放つ有力国人へと成長していきます。
今回は、木曽義仲の生涯、木曽谷の国人として続いた子孫のその後について紹介します。
父の代から続く源頼朝の系譜との対立 義仲の生い立ち
木曽義仲は、1154年に源頼朝の父、義朝の弟である源義賢の子として生まれました。
源頼朝の7歳下にあたります。
父の義賢は、兄の源義朝が、棟梁の源為義と対立し、勝手に東国で勢力を拡大するのを抑えるために、為義から東国に派遣されていました。
義賢は、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んで勢力を拡大しますが、源義朝の子、源義平によって襲われ、大蔵合戦で討死してしまいます。
この時2歳だった義仲は、義平によって命を狙われますが、畠山重忠の父にあたる畠山重能によって命を助けられ、木曽の領主であった中原兼遠に連れられ、木曽に落ち延びています。
これ以降、中原兼遠の庇護のもと、義仲は木曽谷で成長していきます。
この時、義仲の兄で、義賢の嫡子となっていた源仲家は、源頼政に引き取られ、頼政の養子となっています。
中原兼遠の子には、のちの義仲四天王として義仲の快進撃を支える今井兼平、樋口兼光、そして義仲の愛妾として武勇の誉も高かった巴御前がいます。
義仲はのちに自分を支えることとなる重臣たちとともに成長し、平家全盛の世の中でひっそりと生きていきます。
やがて、義仲26歳の時、以仁王が打倒平家の兵を挙げ、諸国の源氏に平家追討の令旨を出し、源平合戦が幕を開けます。
以仁王自身は、源頼政とともに挙兵するも失敗し、この時に頼政の養子となっていた義仲の兄、源仲家も討死しています。
義仲も一帯の勢力をまとめ上げ挙兵、信濃国を中心に勢力を広げていき、源平合戦に名乗りを挙げていくこととなります。
北陸を中心に大勢力を誇る 挙兵後の義仲
打倒平家のために挙兵した義仲は、やがて信濃北部、上野の一部を勢力下に収め、越後国から義仲討伐のために攻めてきた平家方の城長茂を破り、勢力を確立します。
義仲は、以仁王の子で、北陸に逃れてきていた北陸宮を保護し、北陸宮を奉じて勢力拡大を目指します。
この頃には、源頼朝、武田信義がそれぞれ関東、甲斐で勢力を確立していたことから、義仲は彼らとの対立を避け、北陸鎮圧を目指しました。
頼朝との衝突を避けようとしていた義仲でしたが、叔父にあたる志田義広と源行家が義仲のもとへ身を寄せてきたことで頼朝との関係が悪化します。
志田義広は、常陸国を中心に独自勢力を築き、頼朝に反抗し、野木宮合戦で頼朝軍と戦い敗れていました。
また、源行家も頼朝には従わず独立を志向し、独力で平家軍と墨俣川で戦い、頼朝の弟、義円を失い敗北していました。
両者は武力衝突寸前までいきますが、あくまでも頼朝との衝突は避けたい義仲が折れ、息子の源義高を人質に出すことでこの対立は収まります。
この時、義高と頼朝の娘、大姫の婚約がまとまっていたとされており、両者の婚姻をもって頼朝と義仲は同じ源氏方として同盟関係に入ったといえます。
一方、富士川の戦いで源頼朝に敗れ、勢力挽回を図る平家は、平維盛を大将に、北陸で勢力を拡大していた義仲を討つための追討軍を編成します。
もっとも、この時の追討対象者は源頼朝と武田信義となっており、義仲の名はなく、義仲は頼朝や甲斐源氏と比べ格下に見られていたということになります。
平家軍は加賀などの義仲軍の拠点を次々と落とし、越中国へ迫ります。
しかし義仲軍は、今井兼平が寡兵で敵を奇襲し、さらに義仲自身も倶利伽羅峠の戦いで平家軍に完勝します。
勢いに乗る義仲軍は、平家軍を追い京都へ進軍。 義仲は延暦寺なども制圧し京都へ迫り、平家は安徳天皇を伴って都落ちし、ついに義仲は入京を果たすこととなりました。
源頼朝、後白河法皇との対立 悲劇の最期
入京を果たした義仲は後白河法皇のもとへ参上し、改めて法皇から平家追討を命じられます。
この時、義仲とともに源行家が法皇のもとへ参上しており、2人は序列争いを演じ、最終的には1位が源頼朝、2位が木曽義仲、3位が源行家と序列が決定されます。
勢力を失ってはいるものの、長年京都におり、政治力には長ける行家によって、長年田舎で過ごしてきた義仲はさっそくかき乱されることとなります。
さらに、義仲は京都の治安維持にも失敗してしまいます。
折しもこの頃は飢饉の影響で食料が集まらず、そこに大量の武士が乱入してきたため、京都では極端な食糧不足となり、各地で略奪が相次ぎます。
これでは治安維持どころではありませんが、義仲軍は、源行家や、頼朝から派遣された甲斐源氏の安田義定、各地の源氏勢力などで構成された混成軍であったため、義仲の統制力が及ばなかったのです。
足元がすでに揺らいでいた義仲でしたが、自身の権力を確立するために、安徳天皇がいなくなった後の皇位継承者を、自身が擁立する北陸宮にすることを主張します。
しかし、そもそも宮中外の人物に皇位継承に口出しされるのを好まない法皇や公卿たちから疎まれる結果に終わり、折からの失敗も相まって、義仲の立場は急速に低下していくこととなってしまいました。
何とか勢力を挽回したい義仲は、西国に逃れた平家追討を買って出ますが、兵糧不足の影響もあり、水島の戦いで平家軍に惨敗を喫してしまいます。
そのうちに、義仲に嫌気のさした後白河法皇は、独自に法皇への交渉を続けていた源頼朝に対し、東国の支配権を認める宣旨を出し、頼朝軍が京都へ進軍することとなりました。
これは、義仲の入京により政治的に不利となり、立場の挽回を図る頼朝の朝廷工作でした。
これに激怒した義仲は、頼朝と戦うことを選び、後白河法皇へ抗議、頼朝追討の宣旨を出させようとします。
しかし、すでに分裂していた義仲軍は、中核であった源行家、近江源氏、尾張源氏などがこぞって法皇側へつき、頼朝と戦うどころではありませんでした。
義仲はそれでも、武装し義仲と対立姿勢を見せる後白河法皇を襲撃し捕縛。
何とか官軍としての体裁を整えましたが、そのうちに源義経が率いる頼朝軍が美濃国まで到達してしまいます。
勝ち目がないことを悟った義仲は、北陸への退避、平家との和睦工作など、できうる手段を全て行いますが、すでに人望を失っていた義仲に挽回の余地は残されていませんでした。
わずかな兵で頼朝軍との宇治川の戦いに挑みますが、あっけなく敗れ、義仲は今井兼平らと逃亡する途中に、粟津の戦いで討死してしまいました。
木曽義仲の子孫のその後 武田氏のもとで戦う木曽義昌につながる
義仲の死後、鎌倉にいた子の義高は、婚約者の大姫の手引きにより鎌倉を脱出しようとしますが捕まり、処刑されてしまいました。
当時7歳だった大姫の心は深く傷つき、大姫は義高を想いながら病に伏せる日々を送ることとなります。
また、義仲の愛妾であった巴御前は、義仲とともに宇治川の戦いにも臨みますが、敗北後は義仲と別れ、東国に落ち延びました。
やがて、侍所の別当を務める和田義盛の妻になったという伝説が残っており、義盛との間に武勇に優れた朝比奈義秀をもうけたといいます。
一方、義仲には、義高のほかにも、義重、義基、義宗、基宗という4人の男子がおり、それぞれ生き延びていました。
このうち、諸説ありますが、5男の木曽基宗の系譜が木曽氏を名乗り木曽谷の領主として続いたといいます。
基宗の子の基家から、家仲、家教と続き、木曽家村の代に南北朝時代を迎えます。
家村は足利尊氏に従い、北朝方として活躍。
中先代の乱で北条時行らの軍勢と戦い戦功を挙げたことで、木曽谷周辺の領土を与えられ、木曽氏を一帯の大領主へと成長させました。
家村は甥の家頼に家督を譲り、以降、家親、頼豊、信道、豊方、家賢と木曽谷の領主として続いていきます。
木曽氏はこの頃に、御嶽神社の若宮を建立した記録が残っているなど、一帯の支配者として室町時代を通じて着実に勢力を伸ばしていきました。
家賢の子の家豊の代には、室町幕府8代将軍足利義政の命を受け、美濃国の遠山氏を攻め、子の義元の代には飛騨国へ攻め入るなど、周辺諸国へも勢力を拡張します。
子の木曾義在の代には、中山道の要衝であった木曽谷の街道、宿場を整備し、木曽の木材も輸出するなど、経済力も高めていきます。
しかし、木曾義在の孫の木曽義昌の代に、武田信玄の侵攻を受け、武田氏の配下に下ることとなりました。
義昌は信玄の三女の真理姫を妻に迎え、武田一門として引き続き交通の要衝であった木曽を治めていきます。
しかし信玄の死後、長篠の戦いで勢力を落とした武田勝頼を見限り、1581年にいち早く織田信長に内応します。
そして攻め寄せた武田軍を撃退し、織田信長の甲州征伐軍に従軍。
戦後には松本城など信濃国の一部の領地を与えられました。
しかし、本能寺の変後の天正壬午の乱の後、徳川家康に従い、家康が小田原征伐後に関東へ移封となると、木曽氏は下総国へ移封となり、木曽の地を失ってしまいます。
木曽氏にとっては、石高は同じでも、山林収入などの経済的恩恵を失い、実質的な減封でした。
義昌の跡を継いだ木曽義利は、この減封に嫌気がさしたのか、乱暴な振る舞いが多く、叔父を殺害したことにより改易されてしまいました。
その後の木曽氏は尾張藩、米沢藩などに仕え、その系譜を残していくこととなります。
また、木曽氏の子孫の葦原検校は、医師として活躍し、将軍家からの信任も得るまでの地位に出世します。
葦原検校は木曽氏の再興を計画し、息子を旗本に取り立てさせることに成功。木曽義仲や源義賢の碑文を墓所に建立するなど、木曽義仲顕彰活動も進めました。
しかし江戸幕府は瓦解し、その後の葦原検校の子孫は、木曽氏旧臣が集まっていた群馬県の箱田村に移住し、子孫は同地で続くこととなりました。
木曽氏として木曽谷で続いた系譜は、一説には木曽義仲の威光を借りた地元豪族が名乗ったものとも言われていますが、義仲の意志は、木曽の地で続くこととなったのです。
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