こんにちは!レキショックです!
今回は、木曽義仲を支えた四人の武将、今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠について紹介します。
木曽義仲は信濃国の山奥で育ち、義仲の乳母の出身である中原氏や、海野氏、根井氏などの有力な豪族の支援を受け成長しました。
2歳で木曽に送られた義仲には、彼らの子供たちが側近として仕え、義仲にとっては幼なじみ同然の存在となります。
義仲とともに成長した若武者たちは、義仲とは固い絆で結ばれ、打倒平家の挙兵以降、義仲の快進撃を支えていきました。
最期まで義仲と運命を共にした彼らの活躍は、平家物語をはじめ様々な書物に記され、現代にまで伝わっています。
そんな義仲四天王の生涯を1人ずつ紹介します。
主君を守り壮絶な最期を遂げる 今井兼平
今井兼平は木曽義仲の乳兄弟としてともに育ちました。
当時は、高貴な人物の養育を実の母親の代わりに行う乳母という役割があり、その乳母の実の子を乳母子といいました。
乳母子も、乳母とともに幼少期から貴人に仕え、同年代で同じ乳母のもとで育つため、乳兄弟と呼ばれ、兄弟のように親しく、強い絆で結ばれることとなります。
貴人にとっても、生まれたときから自分の側に仕えていた人物として、最も信頼のおける人物となりました。
義仲と兼平は、典型的な乳兄弟として育ちました。
義仲の父、源義賢は、兄で、源頼朝の父にあたる源義朝と対立し、その子の義平との間に大蔵合戦を起こし、討ち死にしていました。
当時2歳だった義仲は、義賢側から義朝側に寝返りながらも、義賢への旧恩を忘れられなかった斉藤実盛によって、信濃国の豪族の中原兼遠のもとへ届けられます。
これは、兼遠の妻が、義仲の乳母を務めていた縁によるものでした。
そして、この中原兼遠の子が今井兼平になります。
兼遠には、兼平の他にも、義仲四天王の1人、樋口兼光や巴御前など多くの子がいました。
義仲は兼平ら同年代の子どもたちとともに、木曽の地で成長していきます。
そして1180年、以仁王の挙兵に伴い、木曽義仲も平家討伐の兵を挙げます。
兼平は義仲軍の主力として活躍し、義仲にも信頼され、戦いの最前線を任されていました。
義仲は直情的で、勢いに任せて動くタイプでしたが、兼平は常に冷静に周りの状況を確認し判断するタイプで、義仲の快進撃を支えることとなります。
義仲の信頼が厚かったことから、義仲に直接意見を述べることも許されており、この対照的な2人がいたからこそ、義仲軍は信濃国の一勢力から、北陸を席巻する大勢力へと躍進することができたのでしょう。
義仲軍は、横田河原の戦いで城長茂の軍を破り、越後国を掌握。平維盛率いる追討軍を迎え撃ちます。
ここで兼平は、先遣隊を率いて平家軍先遣隊の平盛俊の軍を破り、平家軍の出鼻をくじく大功績を挙げました。
勢いに乗る義仲軍は、倶利伽羅峠の戦いで平家軍を撃破し、京都に侵入を果たしました。
しかし木曽義仲は、後白河法皇と対立した上に、兵糧不足から京都の治安維持にも失敗、さらに平家軍にも大敗を喫するなど、その立場を失っていきます。
そこに鎌倉の源頼朝が、弟の源義経らが率いる軍を義仲討伐のために派遣してきます。
義仲は、兼平らの活躍により、法住寺合戦で後白河法皇を幽閉し、何とか官軍の体裁を整えこれを迎え撃とうとしますが、頼朝の大軍の前に、人望を失っていた義仲のもとに集まる兵はほとんどいませんでした。
それでも兼平は義仲軍の主力500騎を率い、瀬田で源範頼の3万の軍と戦います。
しかし多勢に無勢で敗れ、宇治川の戦いでも源義経率いる軍に根井行親らの軍勢が敗れ、義仲も後白河法皇の確保に失敗したことから、義仲軍は総崩れとなり、北陸方面へ退却しようとします。
兼平は近江国の粟津で義仲と合流しますが、義仲に従う兵はわずか数騎となっていました。
鎧が重くなったと弱音を吐く義仲に対し、兼平は、自分が敵を防ぎ切るから、その間に自害すべきと義仲に最期を遂げさせようとします。
ともに敵に討ち入って討死しようと言い張る義仲に対して、兼平はなおも、郎党に討ち取られるより立派な最期を遂げるべしと義仲を押し留めます。
やっとのことで義仲を松原の中に入らせますが、その間に、義仲は敵の放った矢に頭を射られ、討ち死にしてしまいました。
義仲の死を見届けた兼平は、頼朝軍に対し、これが日本一の剛の者の自害だと、刀の先を口に咥え、馬から飛び降り、壮絶な自害を遂げました。
兼平のこの忠節は、平家物語で木曽殿最期として記され、兼平は乳母子の手本として後世まで長く語り継がれることとなったのです。
敵に捕らえられながらも主君への忠節を尽くす 樋口兼光
樋口兼光は、中原兼遠の子で、今井兼平、巴御前の兄にあたります。
兼平とともに乳兄弟として幼い頃より義仲に仕え、義仲挙兵後も義仲軍の主力として活躍しました。
兼光は、義仲が北陸で勢力を確立するきっかけとなった倶利伽羅峠の戦いで大活躍を見せます。
義仲軍は平家の大軍を前に攻撃を行わずに油断させていた一方、兼光の軍を密かに背後に回らせて、夜になって奇襲を行いました。
慌てふためいた平家軍は退却しますが、兼光によって退路を抑えられ、次々と崖下に転落し、壊滅しました。
入京後も兼光は義仲軍の主力として活躍し、義仲が平家討伐などで京都を留守にする間は、京都にて後白河法皇の監視を行うなど、義仲軍の守りの要となりました。
後白河法皇と対立した法住寺合戦では、弟の兼平とともに法皇を拘束するなど活躍し、その後、義仲から離反した源行家の討伐軍の大将として河内国へ出陣します。
兼光は行家を打ち破りますが、その間に義仲は頼朝軍に敗れ、討ち死にし、義仲軍は壊滅していました。
兼光は、かねてより親しくしており、頼朝軍の主力でもあった武蔵国の児玉党の説得により武装解除し、源義経に生け捕られました。
義経や児玉党は兼光の助命嘆願を行ったものの、後白河法皇の兼光に対する恨みは大きく、法住寺合戦で法皇に弓引いた罪などで、斬首とされることとなってしまいました。
兼光は最後の嘆願として、首を義仲の首の隣に置いてほしいと頼み、斬られました。
義仲の死後も義仲への忠節を尽くした兼光の態度は、平家物語でも忠義の士として描かれています。
また、兼光の子孫には、戦国時代に越後国の上杉景勝の執政として活躍した直江兼続がいるといわれています。
樋口兼豊の子として生まれた兼続は、上杉景勝の右腕として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人の間を渡り歩き、上杉家を現代にまで残す役割を担うこととなりました。
親子で義仲を支える 根井行親、楯親忠
根井行親は、保元の乱では源義朝に従って活躍するなど、古くから源氏に仕えていた人物でした。
義仲四天王の1人として数えられていますが、行親のみ他の3人と年代が離れており、実際は行親の長男の根井小弥太が四天王の1人であったといわれています。
また、四天王の最後の1人、楯親忠は、行親の6男で、親子揃って義仲のために奮闘していました。
幼い頃より義仲に付き従っていた彼らは、乳兄弟であった今井兼平らと同様に義仲と深い絆で結ばれ、義仲の躍進を支えていくこととなります。
行親らは、義仲の挙兵後も義仲軍の主力として活躍し、平家の勢力圏である越前国にまで侵入し、平教盛の子で越前守を務めていた平通盛らを水津の合戦で破る功績を挙げています。
越前国は平家の物資補給の拠点であり、越前の支配がおぼつかなくなった平家は、兵糧不足にさらに苦しむこととなり、倶利伽羅峠の戦いでの敗北につながっていくこととなります。
義仲軍の一員として根井行親、楯親忠も入京を果たしますが、義仲軍は数々の失敗により劣勢に立たされ、ついには源頼朝の討伐を受けることとなります。
行親らはこれに対し、300騎を率いて宇治川で源義経の軍と対峙しました。
行親らは寡兵ながらも、必死に防戦し、畠山重忠の馬を射抜き、重忠を落馬させるといった活躍を見せています。
しかし衆寡敵せず、行親、親忠らは次々と討死し、宇治川の義仲軍は壊滅しました。
行親の首は戦後、木曽義仲や今井兼平らの首とともに獄門にさらされました。
一方、戦死した親忠の妻は、義仲の子孫とともに上野国に落ち延びたといい、義仲の意志を後世に伝える役割を果たすこととなりました。
劣勢の中にあっても義仲に最後まで付き従い、その名を後世に残した義仲四天王。
後白河法皇や源頼朝らの政治力に翻弄され、不運も重なり勢力を落とした義仲は、最後の頼朝軍との戦いでは、兵力に差がありすぎて戦いになりませんでした。
そのような状況下でも付き従っていた彼らの忠誠心こそが、義仲が木曽谷の一勢力から平家追討の立役者にまで成り上がる原動力となったのでしょう。