偉人解説

平維盛の生涯 富士川の戦いでの敗戦後に謎の死を遂げる

光源氏の再来と称された平維盛

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今回は、富士川の戦いで平家軍を率いて敗れた平維盛について紹介します。

平維盛は、平清盛の嫡男であったものの若くして亡くなった平重盛の子で、平清盛にとっては嫡孫にあたります。

その美貌から光源氏の再来とまで呼ばれるほど人気の高かった維盛。

しかし、父の平重盛が亡くなると、平家一門の中での立場は微妙なものとなり、そのような状況下、源氏との戦いに駆り出されていきます。

そんな不運なプリンス、平維盛の生涯を紹介します。

平家の跡継ぎとして将来を期待される貴公子

維盛の祖父 平清盛

平維盛は、平清盛の嫡男、平重盛の子として1159年に生まれました。

父の重盛は、保元の乱平治の乱を経て、平家が権力を掌握するに従い、平家政権の中心人物として徐々に権力を振るうようになります。

維盛は、重盛の長男ではありましたが、母の身分が低かったことから、当初の嫡男は次男の平資盛とされていたようです。

維盛の弟 平資盛

資盛が、摂政松殿基房に恥辱を与えられ、平家が報復を行い、後に平家悪行の始めと言われた殿下乗合事件の前後に、維盛が資盛に代わって嫡男とされており、以降は将来の平家を継ぐ後継者として育てられる様になります。

維盛は容姿端麗で芸も達者であったことが当時の記録にも記されています。

後白河法皇50歳を祝う祝賀では、烏帽子に桜と梅の枝を挿して見事な舞を披露し、桜梅少将と呼ばれ、称賛されています。

維盛の様子は当時の日記には、今まで見たことのないほどの美貌、光源氏の再来と記されるほどでした。

平家嫌いで有名な九条兼実の日記にも維盛の美貌が記されていることから、その容姿は相当人々の心をひきつけたようです。

重盛の邸宅の場所から小松家と呼ばれた重盛の一族は、平家の後継者の一族として明るい将来が待っているかに見えました。

しかし、父の平重盛が1179年に42歳の若さで亡くなると、維盛ら小松家の立場は微妙なものになります。

維盛の父 平重盛

本来ならば、重盛の嫡男である維盛が跡継ぎとして平家の棟梁となるべきところ、重盛の弟の平宗盛が清盛の跡継ぎとされてしまったからです。

重盛は後白河法皇の側近の藤原成親の妹を妻としていましたが、藤原成親は鹿ヶ谷の陰謀に関与していたことで殺されていました。

維盛の妻も、藤原成親の娘で、他に関係の深い公卿がいなかったことが、重盛の生前から小松家の立場を弱いものにしており、重盛の死によって小松家は力を失ってしまいました

さらに悪いことに、後白河法皇が重盛が亡くなったのを良いことに、重盛の知行国であった越前国を没収し、維盛らは生活基盤さえも危うくなってしまいました。

平清盛も、維盛ら小松家の微妙な立場を十分に理解していただけに、法皇の振る舞いに激怒します。

清盛は後白河法皇を幽閉しその権力を取り上げるまでに発展し、その余波で以仁王が所領を没収されたことが、以仁王の挙兵、ひいては源平合戦のきっかけとなっていきます。

こうして、微妙な立場に置かれながらも、維盛は平家の一員として源平合戦に駆り出されていくこととなるのです。

討伐軍の大将として各地に派遣されるも大敗北

富士川の合戦の舞台 駿河国

以仁王が源頼政らとともに打倒平家の兵を挙げると、維盛は叔父の平重衡とともに討伐軍の大将として派遣されます。

維盛は平家の侍大将、伊藤忠清の活躍もあり、これを鎮圧しました。

しかし以仁王が諸国の源氏に発した令旨により日本各地で反平家の動きが高まり、伊豆国では源頼朝が打倒平家の兵を挙げます。

維盛は今度は頼朝討伐の大将とされますが、早々に出発しようとする維盛に対し、日が悪いので日程を改めるべきと侍大将の伊藤忠清が進言し、出発が遅れてしまいます。

維盛の出陣する姿は、絵にも描けないほどの美しさだったといわれていますが、この出発の遅れが頼朝に時間を与えてしまうこととなりました。

東海道を東に進む維盛でしたが、飢饉の影響で兵糧が集まらない上、各地で源氏が蜂起している情報が広まり、兵が思うように集まらなかったことから進軍は遅れに遅れ、半月ほどかけてなんとか駿河国にまでたどり着くという有様でした。

さらに、追討軍の到着を待って、駿河国の平家側であった目代の橘遠茂が甲斐源氏を攻撃しますが惨敗、駿河を手に入れた武田信義ら甲斐源氏は独力で維盛ら平家軍を討ち果たそうとします。

甲斐源氏の棟梁 武田信義

4千騎程度しかおらず、逃亡者も続出していた平家軍は戦う前から士気を失っており、伊藤忠清ら兵士たちは撤退を主張、当初維盛は劣勢でも戦うつもりでしたが、頼朝も大軍を率いて向かってきており、やむなく撤退を決めます。

しかし、撤収を命じた直後の夜、数万羽の水鳥が一斉に飛び立ち、それを敵の夜襲と勘違いした平家軍は慌てふためき壊走することとなってしまいました。

敗走する維盛に付き従ったのはわずか10騎ほどであったといい、その醜態に清盛は激怒します。

維盛は京都へ入ることを禁じられますが、その数カ月後に清盛は病で亡くなり、維盛の罪も解かれました。

そして維盛は、源頼朝の叔父、源行家が率いる軍を墨俣川の戦いで破り、汚名を返上します。

墨俣川の戦いの後、右近衛権中将に任官され、小松中将と呼ばれ、公卿の地位にも列しますが、棟梁である平宗盛の長男、平清宗に任官スピードでは遅れており、すでに平家の本流からは外れていました。

やがて、維盛は、北陸道を進む木曽義仲の追討軍の大将として北陸に出陣します。

劣勢に立たされつつある平家の総力を結集した、10万の軍を率いて義仲討伐に向かった維盛でしたが、折からの兵糧不足もあり士気は低く、倶利伽羅峠の戦いでわずか5千の義仲軍に完敗してしまいました。

義仲軍は牛の角に松明をつけて解き放ったという

一大決戦に敗北した平家は京都に迫る義仲軍を防ぐことはもはやできず、ついに都落ちすることとなり、維盛も都を去ることとなります。

突然の失踪 謎に包まれた死

一ノ谷の戦いでの鵯越の逆落としの様子

一時は九州まで逃れた平家でしたが、木曽義仲と源頼朝が争っている間に態勢を立て直し、福原にまで進出します。

ここで一ノ谷の戦いが行われるのですが、維盛はこの戦いの前後に突如として平家の陣から姿を消してしまいました。

陣を抜けた後の維盛の動向は定かではありません。

高野山に入って出家した後、船で沖に出て入水したとも、近くの村に潜伏していたものの、平家滅亡を聞いて入水して亡くなったともいわれています。

和歌山県の熊野地方には、維盛が地元の娘とともに隠れ住んでいたという伝説が残っており、壇ノ浦の戦いでの平家敗戦を聞いて、平家の行く末を占ったところ、凶が出たため那智の海に入水したといいます。

入水して命を落としたため、維盛の正確な墓所は定まっておらず、至るところに維盛の墓とされるものが残っています。

一説には、維盛は後白河法皇のもとに出向いて助命を乞うていたともする説もあります。

後白河法皇

法皇に許された維盛は、法皇の助力もあり頼朝にも許され、鎌倉に向かう途中、相模国で病死したというものです。

平家一門が頼朝に降伏するはずはないと思いがちですが、平清盛の弟の平頼盛は平家の都落ちには従わずに京都に残り、のちに頼朝の厚遇を受けていることから、一概に否定できません。

平家の棟梁は平清盛の次男、平宗盛でしたから、清盛の弟で別の家を立てていた頼盛が従わなかったのと同じく、維盛も平家の棟梁の座を奪った宗盛に従う必要はないと思い別行動を取ったのかもしれません。

頼朝としても、平家の正当な後継者を名乗る資格のある維盛を自身の手の内に収め宗盛ら平家勢力を否定しようとする考えがあったのでしょう。

この説を裏付けるかのように、静岡県には平維盛のものとされる墓が残っています。

維盛が陣を抜けた一方、弟の平資盛は、平家と運命を共にし、弟の有盛らとともに、壇ノ浦の戦いで入水を遂げています。

平家が滅亡を遂げた壇ノ浦の戦い

容姿端麗で、将来を期待されていた平家の貴公子、平維盛。

維盛が源平合戦を生き残っていたら、幕府、朝廷内でも居場所を確保し、後世にその血筋を伝えていたことでしょう。

 

【画像引用】 大河ドラマ鎌倉殿の13人公式サイト https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

大河ドラマ鎌倉殿の13人公式Twitter https://twitter.com/nhk_kamakura13

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