偉人解説

津田梅子ってどんな人物?6歳で留学し、日本の女性教育の発展に尽くした生涯

2024年、日本のお札のデザインが変わるのはご存じでしょうか。

1万円札には渋沢栄一。1000円札は北里柴三郎。

そして、5000円札が、今回紹介する津田梅子です。

日本の女性教育に熱い情熱をかたむけた梅子の生涯を紹介します。

欧米通の父親によって6歳でアメリカに留学

アメリカ到着直後の梅子

1864年12月31日、津田梅子は江戸牛込南町(現在の東京都新宿区)で生まれました。

父の津田仙は幕臣で、蘭学を学び、アメリカに留学経験があったため英語にも堪能でした。

江戸幕府崩壊に伴い職を失うこととなりますが、英語力を活かして築地のホテルに勤めることとなります。

仙は女子教育にも新しい考えを持っており、政府が岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、6歳の梅子を留学生として応募させます。

1871年、梅子はわずか6歳にしてアメリカに留学します。

11年間に及ぶ梅子の長い留学生活が始まりました。

梅子の他に、吉益亮子(当時14歳)、上田悌子(当時14歳)、山川捨松(当時11歳)、永井繁子(当時9歳)、合わせて5人の少女がアメリカを目指しました。

左から、永井繁子 、上田悌子 、吉益亮子 、津田梅子、山川捨松

23日間の船旅の間に、梅子は伊藤博文と出会います。

伊藤は岩倉使節団の一員として乗船しており、5人の少女たちの不安を和らげようと楽しい旅の話を聞かせてくれました。

アメリカで梅子は、日本弁務仕館の書記として働いていたチャールズ・ランマン夫妻の元に預けられました。

当初は「サンキュー」など2、3語しか知らず現地の小学校では大変苦労しましたが、必死に勉強に励みました。

その甲斐あって、学校の成績は優秀で、学芸会での詩の朗読は一度も間違えることなく暗唱するほど成長したのです。

途中、吉益亮子、上田悌子の2人は帰国してしまいますが、梅子はそんな中でも必死に勉学に取り組み、キリスト教への信仰も芽生え、洗礼を受けるなど、徐々に欧米流の生活洋式、考えを身に着けていきます。

「日本に女性のための学校を作りたい」そう梅子が強く思うようになったのは、女学校に通うようになった頃です。

一緒に留学していた山川捨松や永井繁子も、「梅子ならできる!」と励ますのでした。

Ōyama Sutematsu.jpg山川捨松(大山捨松)

1882年10月、11年間のアメリカ生活を終えた梅子は帰国の途に就きます。

付き添いとしてアリス・ベーコンという女性も来日することになりました。

この時、梅子は日本にいた期間よりアメリカにいた期間の方が長くなっていたことから日本語をすっかり忘れ、通訳が必要なほどになっており、少なからず不安を抱えての帰国となりました。

帰国後の梅子 女子の地位向上を誓う

帰国後、梅子は言葉の壁にぶつかると同時に、日本での「女性の地位の低さ」にいらだちを覚えます。

日本では、家庭でも社会でも男尊女卑の考えがまかり通っていました。

留学帰りといえど女子に活躍の場は与えられず、ともに留学した山川捨松と永井繁子はそれぞれ嫁ぐ道を選びました。

日本女性にしっかりと教育の機会を与え、社会を変えなければという梅子の思いはますます強くなっていきます。

1883年11月、梅子はあるパーティーで伊藤博文と再会します。

伊藤博文

その後、伊藤博文から梅子の父の津田仙に「伊藤家に住み込み、夫人や娘に英語を教えてほしい。」という申し出がありました。

梅子は伊藤家に住みながら、貴族の子女が通う桃夭女塾(とうようじょじゅく)で英語を教えます。

そして、伊藤に自分の胸の内をぶつけました。

「せっかくアメリカ留学で身につけた言葉や文化を、私が女性である限り日本では生かすことができません。それはやはり、女性の地位が低すぎるからです。」

梅子の思いを受け止めた伊藤は、国立の女学校設立に力を注ぎます。

その設立会議のメンバーには留学仲間で、陸軍卿を務めていた伯爵 大山巌の妻となった山川捨松も加わっていました。

そして1885年、華族女学校(現在の学習院女子中学、高等学校)が開校。梅子はわずか20歳にして英語教師として迎えられました。

しかし、華族女学校の生徒は良家の子女ばかり。必死に学問に励まずとも、いずれは経済力のある男性と結婚すればよいという考えの生徒たちです。

自立した女性を育てようとする梅子の考えとは程遠いものでした。

余談ですが、3年の教員生活の中で梅子には何度か縁談がもち上がっていました。

しかし、梅子は「結婚の話は二度としないでください。」と手紙に書き、生涯独身を貫きます。

日本の古い結婚制度にしばられることを嫌ったのでしょう。

その後、華族女学校で外国人の教師を招きたいという話が持ち上がります。

梅子は校長にアリス・ベーコンを推薦し、1888年、アリスは華族女学校の教師となりました。

アリス・ベーコン

 

アリスにもう一度アメリカへ留学することをすすめられた梅子は、1889年、2年間の期限付きでアメリカへ旅立ちます。心配していた費用の問題も何とか解決しました。

以前の留学中に梅子の能力の高さに惚れ込んでいたモリス夫人と、親代わりのランマン夫妻の後押しにより、ブリンマー大学が特別に安い学費で受け入れてくれたのです。

ブリンマー大学在学中の梅子

二度目の留学でも梅子は充実した日々を送り、さらに1年間の留学延長を認められました。

生物学を専攻した梅子は、「カエルの卵の発生」というテーマで優れた論文を発表し、大学のトマス学部長は梅子にこのままアメリカに残り科学者になることをすすめます。

梅子は悩んだ末に帰国する道を選びました。トマス先生とは喧嘩別れする形となってしまいましたが、日本の女子教育のために命をかけるという夢を捨てることはできなかったのです。

一方、アメリカ留学中に日本の実情を訴える講演などで寄付金8000ドルを集めた梅子は、1891年に日本婦人米国奨学金制度を設立し、女子の海外留学を支援します。

この制度を利用して25人の日本人をアメリカへ留学させることになります。

この中には、後に同志社女子高等学校校長となる松田道や、梅子から後を託され1929年に女子英学塾塾長となる星野あいらがいました。

女子英学塾の創設 教育者としての活動

27歳の時、2度目の留学から帰国した梅子は、いよいよ学校設立に向けて動き出します。

資金集めのため、モリス婦人などアメリカの友人たちに寄付を募り、梅子の後援会まで設立されました。

1898年、万国連合婦人大会に日本の女性代表として出席するためアメリカやイギリスを訪ねます。

そこで、ヘレン・ケラーフローレンス・ナイチンゲールとの出会いにより、自分の目指す女子教育に間違いはないんだと決意を新たにしました。

Florence Nightingale CDV by H Lenthall.jpg近代看護教育の母、ナイチンゲール

ナイチンゲールから贈られた花を、梅子は押し花にして生涯大切に持っていました。押し花は現在、津田梅子資料室に保存されています。

1900年、梅子35歳でようやく現在の津田塾大学の前身である女子英学塾を開校します。

開校には、父の仙や、アリスベーコン、山川捨松や永井繁子など、たくさんの人々が協力しました。

左から、津田梅子、アリス・ベーコン、永井(瓜生)繁子、山川(大山)捨松

古い民家を借りた校舎に、生徒はわずか10名と、こじんまりとした出発でした。

梅子は、自身の教育方針を貫くため、資金援助を小規模にとどめ、梅子自身やベーコンら協力者たちも当初は無報酬で奉仕していたといいます。

梅子の指導は発音を何度も復唱させるなど大変厳しく、やめてしまう生徒も多くいました。

しかし、熱心な教育のおかげで、英学塾で学んだ生徒の英語は高く評価されるようになります。開校から5年後には、英学塾を卒業した生徒は無試験で英語教師の資格がもらえるほどの評価を受けています。

その後、女子英学塾は順調に成果を上げ、学生数も増えました。

何もかも順風満帆に見えましたが、梅子を病魔がおそいます。

糖尿病を患った梅子は入院することになりました。

翌年の1918年、恩人であり友人で会ったアリス・ベーコンがこの世を去り、1919年には捨松も他界。梅子は女子英学塾の校長を辞任します。

1923年の関東大震災では校舎が全焼しましたが、梅子は「立派な校舎があればいい教育ができるわけではありません。大切なのは熱意と向上心なのです。」とあきらめません。

2度目の留学で出会い、来日して教師として働き、梅子を支えていたアナ・ハーツホンという女性がいます。

アナは校舎再建の資金集めのために渡米し、2年半で資金を集めました。

その間、教師たちは他の学校の校舎を一部借りるなどして授業を続けました。1928年に東京都小平村(今の小平市)に新校舎を建設する計画がスタート。

梅子は弱った体を学校の職員に支えられながら、建設予定地を視察しました。

1929年7月、梅子は住まいを鎌倉の別荘に移します。

目の前に稲村ケ崎の海が広がる住まいです。読書や編み物をする静かな暮らしの中で、人生で一番おだやかな時を過ごしていた梅子。

1929年8月15日の夜、鎌倉は嵐が吹き荒れていました。

8月16日、梅子は64年の波乱に満ちた生涯を閉じました。最後の日記に記された言葉は、英語でたった一行「Storm last night.(昨夜は嵐)」というものでした。

新校舎は、梅子の死から3年後に完成し、学校名も津田英学塾となりました。

その後、1948年に津田塾大学となり、現在に至ります。大学の正門からは、正面にハーツホン・ホールと呼ばれる本館が見えます。

右手に津田梅子記念交流館、左手の図書館内には津田梅子資料室、最も奥まった場所には梅子のお墓が梅の木とともにひっそりとたたずんでいます。

日本初の女子留学生としてアメリカで学び、日本の女子教育に命をかけた津田梅子。

彼女の情熱と、彼女を支える人々の大きな支えにより、日本女性の社会的地位向上のいしずえが築かれたのです。

~参考文献~

『伝記を読もう 津田梅子』山口理 あかね書房
『人生を切り開いた女性たち②』樋口恵子 監修 教育画劇

ABOUT ME
RekiShock レキショック
教科書には載っていない「そうなんだ!」と思わず言ってしまう歴史の話を発信する日本史情報サイトです。 YouTubeでは「大名家のその後」「大河ドラマ解説」 Twitterでは「今日はなんの日」「明治、大正時代の日本の風景」を発信しています。 Twitterフォロワー34,000人 YouTube登録者24,000人
こちらの記事もおすすめ!

コメントを残す