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足立遠元の生涯 子孫は信長 秀吉と激闘を繰り広げる

足立氏の本拠 東京都足立区

こんにちは!レキショックです!

今回は、13人の合議制のメンバーの1人、足立遠元について紹介します。

足立遠元は、頼朝の父、源義朝の代から源氏に仕え、頼朝のもとでは文官としても活躍するなど、文武両道の武将でした。

畠山重忠北条時房とも縁戚になるなど、幕府内でも重要な地位を占めましたが、遠元の死後は振るわず、地方の一勢力として続いていくことになります。

子孫は天下統一を目指す織田信長、豊臣秀吉の軍勢に抵抗しその名を挙げ、現在も子孫が残っている足立遠元の生涯、子孫のその後について紹介します。

源氏一筋の猛将 若き日の足立遠元

源義朝

足立遠元は、武蔵国南部に土着していた藤原遠兼の子として、1130年頃に生まれたといわれています。

源頼朝より20歳近く年上で、父の源義朝の同世代にあたります。

父の遠兼の弟には、源頼朝の従者を務めていた安達盛長がおり、叔父と甥の関係の2人は、のちにともに13人の合議制のメンバーに名を連ねることになります。

遠元は、武蔵国南部の有力武士として、関東に勢力を蓄えていた源義朝に臣従し、義朝から関東を任されていた長男の源義平に従って各地で戦っていました。

源義平

若き日の遠元が特に活躍したのが、源義朝と平清盛が激闘を繰り広げた平治の乱です。

遠元も、源義平に従って上洛し、義平17騎の1人として、清盛の嫡男、平重盛の軍勢と戦いました。

源義平は、遠元らわずか17人の騎馬武者を率いて、平重盛が率いる500騎に突っ込み、さんざんに重盛を追い詰める活躍を見せました。

この17騎の中には、上総広常熊谷直実など、のちに源平合戦で活躍する豪傑たちが揃っており、遠元も彼らに負けず劣らずの武将だったことがわかります。

上総広常

しかし、遠元らの奮戦むなしく、源義朝は敗れ、遠元は上総広常らとともに東国に逃げ延び、平家全盛の世の中をひっそりと生きていくことになります。

そんな中でも、源氏への恩は忘れておらず、20年後に源頼朝が打倒平家の兵を挙げた際には、遠元は真っ先に頼朝側として味方します。

頼朝も、昔から源氏に従って活躍していた遠元を頼りにしており、前々から声をかけていたといいます。

遠元は、武蔵国の有力武士である豊島清元葛西清重らと協力し、武蔵国の勢力をまとめ、石橋山の戦いで敗れたのちに房総半島で勢力を巻き返した頼朝を隅田川で迎え入れ、武蔵国入国を後押ししました。

これらの活躍もあり、遠元は、のちに鎌倉幕府の根幹となる頼朝による本領安堵を、東国武士としては初めて受ける栄誉を手にしました。

その後の遠元は、源義経に従って、木曽義仲との戦いである宇治川の戦いに参戦し、畠山重忠らと一番乗りを争い、頼朝軍の勝利に貢献しています。

畠山重忠

しかし、この頃から、遠元は、武将としてよりも、文官としての活躍が目立つようになります。

遠元は、政務、財政などに従事し、1184年に政務担当機関である公文所が設置されると、この責任者である寄人5人のうちの1人に選ばれます。

遠元以外の4人は、大江広元中原親能、二階堂行政、藤原邦通と、京都出身の文官たちが占めていたことから、武士ながら彼らとともに政務に携わることができる遠元の行政能力の高さが目立ちます。

政治だけでなく、武士として戦場でも活躍しており、奥州合戦では、和田義盛梶原景時らとともに特に勲功のあった10人の1人として官位を与えられるなど、文武両道の活躍を見せていました。

こうして、政治、軍事両面での存在感を発揮した遠元は、幕府を支える重要人物の1人となっていきます。

北条氏、畠山氏、公家とも縁戚に 鎌倉幕府での足立遠元

頼朝の上洛

文武に優れた遠元は、頼朝の信頼も厚く、頼朝が上洛した際には、参院の供を任せられるなど、頼朝政権を支える柱となっていました。

そして、大江広元らと政務方面を担っていた足立遠元は、頼朝の死後、2代将軍となった源頼家の専横を抑えるべく結成された13人の合議制のメンバーにも名を連ねます。

合議制のメンバーは、北条氏など有力御家人と大江広元ら政務担当の文官で構成されており、武士でありながら政務にも明るい遠元は、両者をつなげる重要な存在でした。

しかし遠元は、この頃すでに70歳近くで老齢の域に達しており、息子の足立元春に代替わりしつつあったことから、合議制のメンバーとして目立った活躍をすることはできませんでした。

やがて、メンバーの三浦義澄や安達盛長らが次々と病死し、北条氏と比企氏が争うなど、合議制は自然消滅してしまいます。

三浦義澄

遠元は、これら御家人たちの争いに関わることはなく、その後も儀式への参加などの記録は残るものの、頼朝の死から約10年後に亡くなったといわれています。

遠元には娘が3人おり、それぞれ北条時房畠山重忠藤原光能に嫁いでいます。

北条義時の弟の時房に嫁いだ娘との間には、のちに時房流を継ぐことになる北条朝直が生まれています。

朝直の子孫には、11代執権を務めた北条宗宣がおり、他にも連署として執権を支えた人物が数多く出るなど、北条氏の執権政治を支えていくことになりました。

畠山重忠に嫁いだ娘には、重忠の長男の畠山重秀が生まれました。

重忠はのちに北条時政の娘を正室に迎え、時政の娘との間に生まれた畠山重保を嫡男としたことから、重秀は庶子扱いとなってしまったものの、畠山重忠の乱では、畠山軍の主力として幕府の大軍と戦い、命を落としています。

畠山重忠

また、遠元の娘は、後白河法皇の側近として仕えた公家の藤原光能にも嫁いでいます。

藤原光能は、参議にまで昇進するなど、当時の京都を代表する公家の1人で、東国における遠元の存在感が分かる縁組だといえます。

このように、各地の有力者と縁組するなど、幕府の重要人物として存在感を発揮していた遠元でしたが、遠元の跡を継いだ足立元春の子孫はあまり振るいませんでした。

元春は、源頼家、源実朝に仕え、京都への使者を務めた記録が残っていますが、幕府の要職にはつくことができず、子孫も武蔵国南部の有力御家人として続いたものの、幕政では活躍することができませんでした。

そして、遠親、直元と続き、元寇が終わった頃の直元の代に、霜月騒動に巻き込まれてしまいます。

同族にあたり、この頃は幕府の中心となっていた安達盛長の子孫、安達泰盛と北条氏の家臣筆頭である平頼綱が対立した際に、足立直元は安達側に参戦したため、没落してしまうことになりました。

安達泰盛

しかし、遠元の子の1人、足立遠光は、丹波国に所領を与えられており、この系統が戦国時代まで活躍を続けていくことになります。

足立遠元の子孫のその後 織田信長の天下統一に抵抗する 子孫にはプロ野球選手も!

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足立遠元の3男、足立遠光の子、足立遠政は、現在の兵庫県にあたる丹波国の地頭職を与えられ、武蔵国から離れ、丹波国に勢力を持つようになりました。

足立氏が丹波国に所領を得たのは、3代将軍源実朝の頃であり、この頃の足立氏の動きは不明ながらも、北条氏と御家人たちの争いのなかで北条側に味方し、所領を獲得したものと考えられます。

その後、足立本家が没落する中、丹波国の足立氏は小規模ながら勢力を保ち続け、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げた際には、一族の足立政家が後醍醐天皇のもとへ駆けつけ、京都で幕府側と戦っています。

後醍醐天皇

やがて、足利尊氏と後醍醐天皇が対立し、南北朝の争いが始まると、足立氏は、南朝方に属しますが、時代の波には抗えず北朝側に降伏し、丹波国の一勢力に収まります。

その後の足立氏は、地方の一国人として、守護の細川氏に従い、応仁の乱では、東軍として西軍の山名氏と戦っています。

やがて、応仁の乱が終結し、室町幕府の力がいよいよ衰えると、京都に近い丹波国は、細川氏や三好氏の争いに巻き込まれるようになり、足立氏も大勢力の間を行き来し、生き残りを図るようになります。

戦国時代も佳境に差し掛かると、当時丹波国で勢力を広げていた赤井直正の影響下に置かれるようになり、赤井氏のもとで、足利義昭や、義昭を奉じて上洛した織田信長に従うようになりました。

そして、足利義昭と織田信長が対立すると、赤井直正は織田信長と敵対する道をとり、明智光秀など織田軍と激闘を繰り広げるようになります。

明智光秀

この頃の足立氏当主、足立基助も、織田側であった隣国の但馬国の山名氏と戦いを繰り返し、赤井氏の援軍などもあり、これを撃退していました。

しかし、当時は羽柴秀吉と名乗っていた豊臣秀吉が山陰地方の攻略を命じられると、秀吉の弟の羽柴秀長が但馬国に入り、足立氏は羽柴軍の猛攻を受けるようになります。

頼みの赤井氏も、剛勇で知られた赤井直正が病死し、明智光秀によって侵略されており援軍は期待できず、羽柴軍の猛攻を受けた足立氏は、300年近くにわたって居城としてきた山垣城を落とされ、当主の足立基助も討死し、遠元以来続いていた名門足立氏はここに滅亡することになりました。

武家としての足立氏は滅亡したものの、足立基助の子の足立基堅をはじめ、一族の多くは生き残り、丹波国で帰農し、足立氏は丹波国の領民として生き残りました。

現在の兵庫県中部には、足立氏の子孫が多く住んでおり、1960年代に阪急ブレーブスのピッチャーとして活躍した足立光宏氏は、この足立氏の子孫であるといわれています。

また、民主党で参議院議員を務めていた足立良平氏も足立氏の子孫であるといわれており、現在も国民民主党の大阪府連顧問を務められるなど活躍しており、関西を中心に現在も足立氏の子孫は各地で続いています。

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